top of page

玉川源流に伝わる池の平伝説について                                         2017年8月16日 神谷 博

江戸時代、多摩川は玉川と呼ばれていました。 相澤伴主による「調布玉川惣画図」には小菅村の玉川が玉川源流として描かれています。 

その源流は池の平と呼ばれており、そこに玉姫伝説が残されていることがわかりました。

 

『その昔、甲州と武州の境を戦に敗れて鎌倉を目指して落ち延びる玉姫一行があった。 難儀する一行は小菅で村人にかくまわれた。 旅を続ける間に、玉姫は一心に尽くす家来の若者の大青と想いあうようになった。 ある日、追手に追いつかれ家来たちは斬られ、玉姫と大青は池に身を投げた。 すると玉姫は大蛇となり大青は狼となって追手を嚙み殺した。 二人はその地で仲良く暮らしていたが、ある年の大雨で池は壊れ、大蛇は流されてしまった。 この大蛇の流れた川は玉のように流れる清流で将軍様に献上した名水だった。 そしてこの川は玉姫の名を取って玉川と呼ばれるようになった。』

 

一人残された狼が住む岩を「狼岩」、狼の悲しんでなく山を大青山「オッセイ山」と村人は呼びました。 今でも、玉姫たちが迷った谷を「小玉川」、足を洗った谷川を「アシ沢」、熊を切った谷を「熊切沢」、家来の太 郎衛門が斬られたところを「太郎衛門」、腰元のナツチが斬られたところを「ナツチ沢」、姥が病に倒れたとこ ろを「姥のふところ」、大きな木を切り橋としてかけたところを「古橋場」、村人が家来たちを供養したところ を「高橋平」と呼び、刀などを供養したところを「剣が岩」と呼んでいます。

 

この伝説は、口承で今に伝えられており、余沢の横瀬健氏が新たにこれを書き残しました。 時代は鎌倉末期の畠山重忠の最期に際してその親族も追われて、秩父から小菅を抜けて鎌倉に向かっていたと 伝えられていて、そのルートは富士講の古道であり、小菅村の大成や白沢を抜け、玉川はその道筋に当たります。現在の池の平は、登山道からも外れ、訪れる人も少ないですが、玉川源流の伝説の場に相応しい良い環境が残っています。

多摩の語源は数多く語られているが、どれも確証がないままとなっています。 学説にはない民間伝承が残っていることは貴重であり、今後「新多摩川誌」の多摩の語源考にも書き加えられるべき価値のあるものと思っています。

bottom of page